総本家駿河屋の歩み

総本家駿河屋の歴史

今から550年以上昔の室町時代中期。船着き場として栄えた「山城国船戸の庄」、現在の京都伏見の郊外で、初代・岡本善右衛門が「鶴屋」という名で饅頭屋を開いたのが、総本家駿河屋のはじまりです。時は南蛮からの白糖などの伝来によって、日本に新しい和菓子文化が花開きはじめた頃。岡本善右衛門は菓子づくりに邁進しました。「菓子のみに生きる」という家訓のもとに、実直に菓子と向き合うこと128年。城下町として栄華を誇った京都・伏見でさまざまな菓子屋がしのぎを削るなか、当時は珍しかった「紅羊羹」が豊臣秀吉に取り立てられ、総本家駿河屋は諸国大名の絶賛を博したといわれています。さらに時は流れ、江戸時代。総本家駿河屋から、和菓子の歴史に名を残す菓子が誕生しました。五代目・岡本善右衛門が考案した「煉羊羹」です。当時の主流であった「蒸す」製法から、「炊き上げる」製法へ。そして後年に発見された寒天を用いたその製法は、それまでの「羊羹」の様式を覆し、現代まで続く基本をつくりました。

紀州徳川家のはじまりからずっと。

「城主の菓子は総本家駿河屋」。

同じく江戸時代、総本家駿河屋に大きな転機が訪れました。徳川家康の十男であり、八代将軍・徳川吉宗の祖父にあたる徳川頼宣公との出会いです。頼宣公は幼少時代から総本家駿河屋の菓子を気に入られたと見え、駿河(現在の静岡県)へお移りになる際、総本家駿河屋も共に駿河へお連れになりました。さらに頼宣公が紀州へ移り、紀州徳川家が興ったとき、総本家駿河屋も共に紀州へ。以降ずっと、紀州藩主に献上された菓子は、総本家駿河屋の菓子だったのです。そのひとつが、いまなお看板商品となっている「本ノ字饅頭」。参勤交代の際の携行食としてもお納めしていました。1658年、紀州藩の第五代将軍・徳川綱吉公の御息女「鶴姫」が紀州家にお嫁入りされた際、同じ「鶴」の字を使うのは恐れ多いとして、屋号「鶴屋」を返上し、徳川家にゆかりのある屋号「駿河屋」を賜るなど、徳川家との関わりが深い「総本家駿河屋」。「紀州徳川家の顔」ともなる菓子を250年以上もつくり続けるなかで、菓子づくりの確かな技が磨かれました。[総本家駿河屋]

受け継がれる御用菓子司の技

将軍様から、パリジャン・パリジェンヌまで。

世界も魅了した、確かな技を現代に。

総本家駿河屋の代表作「煉羊羹」は、現在でも「古代伏見羊羹」として当時の製法に忠実につくられ、また「本ノ字饅頭」などの菓子も伝統の味を守り続けています。このような実直な菓子づくりによって生み出されたのは、世界にも通じる「洗練」です。1855年には、第1回パリ万博に出品した「煉羊羹」が受賞。総本家駿河屋の菓子づくりの技、そして高め続けた美味しさが、時間も国境も越え、世界中の人に愛されるものであることが示されました。このように世界も魅了した味と、それを支える技。そのこだわりを最もよく表しているのが、菓子づくりの道具です。総本家駿河屋では、江戸時代の落雁づくりに使用された「木型」や、職人が菓子のつくり方を記した「絵手本」などの貴重な資料が伝来し、今でも和歌山市立博物館に保存されています。その状態の良さからは、代々、菓子づくりの技を大切に受け継いできた職人の姿勢が伝わってきます。総本家駿河屋の店頭に並ぶ菓子には、守るべきを守り、磨くべきを磨いて、550年以上も進化し続けてきた「御用菓子司」の確かな技が詰まっているのです。

和歌山の和菓子文化とともに

「紀伊国名所図会」

「和歌山の菓子」は、京都や金沢の菓子と比べると、「きらびやかさ」には欠けるかもしれません。しかし、ふっくらと蒸し上がった酒饅頭や後味がほどよい羊羹など、食べればつい笑みがこぼれる菓子には、和歌山の太陽のように心を温める「日々の幸せ」が詰まっています。これは、紀州徳川家の「質素倹約を旨とす」という精神を引き継いだためなのかもしれません。約300年間、紀州徳川家の御用菓子司として菓子をつくり続けた総本家駿河屋は、その和歌山の和菓子文化の中心を担ってきました。江戸時代の和歌山の名所を記した、「紀伊國名所図会」を開いてみると、総本家駿河屋を描いた一枚の絵が綴られています。餡炊き、煉り、包みなど、たくさんの奉公人が絶え間なく働く様子を描いたこの絵が、和歌山を代表する風景として収められていることから、総本家駿河屋が単なる菓子屋ではなく、「地域の顔」の一つとして愛されてきたことが伝わります。そんな総本家駿河屋には、和歌山の数多くの和菓子職人が修行に訪れ、その技を受け継ぎながら、新たな「和歌山の菓子」を生み出していきました。そして、私たちは、和歌山に育まれた菓子文化を引き継ぐとともに、特産品を活用したより「和歌山らしい」菓子を創り出していけるよう精進いたします。